小泉首相の靖国参拝の是非が大きな政治・外交問題となっている。靖国神社にA級戦犯が合祀されているからだが、これをどう考えるべきか? いくつかの前提を確認しておきたい。 まず、先の大戦に限らず、これまで国のために尊い命を犠牲にされた戦没者、単に軍人軍属にとどまらず民間の犠牲者をも含めて、その霊を慰め悼むべきことは、今この時を生きる者として、当然のことである。 次に、こうした戦没者の追悼で、小泉首相のように「どのような仕方がいいかは他の国が干渉すべきではない」、すなわち「内政干渉」だとまでは言わないまでも、確かに、その国の戦没者追悼のあり方は、その国自身が決めることだ。外国にとやかく言われて変更すべきものでもない。 その上で私は、首相の靖国参拝には反対である。なぜなら、国策を誤り、戦争への道を歩んで、300万人を超える同胞を犠牲にし、植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた人物の罪を、私は許すことはできないからだ。とりわけ、日本という国家を、一時存亡の危機にまで追いやった人の罪は重い。そういう人が祀られている靖国神社に、日本の代表者である首相は参拝してはいけない。 この点に関連して、極東国際軍事(東京)裁判の正当性を問う向きがある。そもそもこの裁判は「戦勝国の一方的断罪」であり、事後法による処断は罪刑法定主義にも反する、また、仮に有罪としても、昭和27、8年当時の国会決議をもって戦犯の罪は赦免され、もはや罪人ではないとも主張する。 しかし私は、日本が東京裁判の判決を受諾して国際社会に復帰(サンフランシスコ平和条約の締結)した以上、仮に正当性への疑問があっても、今更異を唱えるのはフェアーではないと考える。「赦免」は、確かに「罪を赦す」という意味だが、当然「罪を犯した」ということを前提としている。その事実は消えはしないのだ。 ただ、そう主張する人たちに、だからこそ強調したいことは、まさに論者が嫌う外国から云々される以前に、戦争指導者の責任については、我々日本人自らが、自らの価値尺度で総括すべきだということである。ドイツでは、ニュルンベルク裁判の後、自ら、10万件のナチス犯罪を捜査し、6000件の有罪判決を下したという。論者は、戦争指導者に、一切の責任や問われるべき罪はないと言い切るのであろうか? さらに、靖国神社は、先の大戦を「自存自衛のための戦争」と位置づけている施設である(『靖国神社 遊就館図録』冒頭の宮司挨拶)。これは明らかに政府公式見解(95年の村山談話。それ以降の内閣も継承)とも異なる。戦前の独善的なナショナリズムがそうさせたように、犯した罪への深い反省なくしては、戦争の災禍を再び生まないとも限らない。そうした施設に政府の代表者である首相が参ってはいけない。 神道の教義では、一旦祀られた霊は分けることができないという。そうであれば尚更、戦争指導者と一般戦没者の霊は融合一体化されていると言え、首相の靖国参拝が戦犯の霊をも悼むと、特に、中国や韓国に解されても致し方ないことだ。 冒頭述べたように、戦没者への慰霊はもちろん大切だ。だからこそ、政府は毎年終戦の日に、天皇皇后両陛下ご臨席の下、首相も出席して「全国戦没者追悼式」を行い、先の大戦で亡くなった方々を追悼している。「無名戦士の墓」である千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、その慰霊祭や拝礼式において、首相や担当大臣が追悼をしている。戦没者慰霊と言えば、広島や長崎の原爆死没者慰霊式や沖縄全戦没者慰霊式もある。要は、戦場で亡くなった方々に止まらず、全ての戦争犠牲者をあまねく慰霊すべきなのである。その点でも靖国神社の祀る対象には、軍人軍属のみ、官軍犠牲者のみといった偏りがある。 確かに、A級戦犯の分祀は一つの解決策だろう。しかし、上述のように神道の教義上不可能で、また、仮に分祀できるとしても、政教分離の原則から、靖国神社に対し、その意向に反して国が強制できないのであれば、意味のない議論だ。また、新たな無宗教の追悼施設の建立は、行革にも反し、その暁にも靖国神社に時の首相が参拝するなら、その努力も水泡と化す。 つまるところ、首相の靖国参拝を止めればいいだけの話なのである。
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