役所には技官と事務官がいる。同じキャリア官僚といっても、その処遇には雲泥の差があるのが実情だ。実はここに、根の深い談合や行革反対の、一つの大きな背景があるのである。 私がかつて勤めていた旧通産省(現経済産業省)にも、事務官と技官の対立があった。同じキャリアで学歴も一流大卒なのに、技官は決して事務次官にはなれない。せいぜい、一局長ポストを事務官と交替で勤めるだけで、大半は本省の審議官や課長止まりだ。そんな不満が技官グループには大きい。かといって、事務官側も既得権益のポストを技官に手放すほど度量は広くない。 毎年毎年、そういった小競り合いが続く中で、お互いの領分を侵すのはやめようという暗黙の了解も定着してくる。特に事務官は、「事務官の上級ポスト独占」という技官への負い目もあるので、技官所管の行政分野へは、仮に問題があっても「腫れ物にさわる」ようにしか意見を言わない。いや、言えない。そこに、道路公団の技術系が差配してきた談合事件の根本原因もある。本省の旧建設省(現国土交通省)でも同じことだ。そこには、事務系の道路公団総裁も国土交通省事務次官も容喙できないクローズの世界がある。 だから、道路公団民営化委員会の猪瀬直樹委員が、談合事件にからみ、近藤総裁を通じて、技術系トップの内田副総裁に委員会出席を要請しても頑として出てこない。そもそも旧建設省出身の総裁の時ですら指揮命令下に入らないことを自負している技術系副総裁に、民間出身総裁が何を言っても聞くわけはないであろう。形式的には人事権があるとは言っても、実際は、技術系トップが実際の技官人事を勝手に取り仕切っているからだ。人事権なき上司の命令に実効性はない。 この事情は、多かれ少なかれ他の省庁とて同じことだ。技官は、土木、電気、農業といった職種ごとに細分化され、専門化されている。そして、例えば旧建設省の道路局や河川局に入った人は、一生道路行政や河川行政の仕事に携わる。そうすると、人間の情として、その組織に愛着が出てくるのは当然で、それが行革ということになると、抵抗勢力として立ちはだかるのである。既得権益や談合といった悪しき慣行も、自らの存在意義でこそあれ、世間から何を言われようが改革への対象にはならない。 したがって、このような各省庁の縦割りや既得権益維持、組織防衛意識を変えるためには、キャリア官僚の一括採用にとどまらず、あわせて「技官制度の廃止」がなければならないのである。 私は、「事務官・技官」、「一種・二種・三種」(キャリア・ノンキャリア)という現在の公務員の区分を廃止し、大きく「総合職と専門職」に分けるべきだと考えている。そして、ジェネラリストとしての「総合職」は内閣(または人事院)で一括採用し、その後の人事異動も一元管理する。一方、スペシャリストは、今後社会が複雑化するほど、むしろ必要だから、その人たちは個別省庁毎に「専門職」として採用する。 総合職は、将来の幹部候補生で、各省庁を横断的に回ることで「オールジャパン意識」を持つように育てられる。これらの人に求められるのは、専門馬鹿でもなく、狭い縦割りの中での自己利益の実現でもない。世の中の流れや国民のニーズを敏感にかぎとり、大局的な見地から決断を下すことだ。その指揮監督下に入る専門職は、特定の部署に原則として勤務し、局長や審議官にはなれないが、別の面、すなわち、給与の面で処遇していく。専門職で優秀な人は、事務次官や局長と同じ給料にすればいい。 このように、特定の省庁が特定の官僚(利益)集団を丸抱えといった状況を打破しない限り、悪しき慣行の打破や行政改革の実はあがらないのである。
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