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 昨年10月、衆議院神奈川8区補欠選挙に無所属で出馬、初当選を果たした。98年、橋本龍太郎内閣で、通商産業省(現・経済産業省)から官僚として異例の抜擢で総理大臣政務秘書官になり、話題となった人物だ。しかし、その素顔は意外にも庶民派。政党政治に一石を投じていきたいと語る江田氏はどんな20代、30代を送ってきたのだろうか。


江田写真1瞬間、瞬間を全力で取り組んできたなら、道は必ず開けるんです。

官邸への出向で知った井の中の蛙だった自分

 大学時代はあまりまじめな学生とはいえませんでね。マージャン、合コン、合ハイに明け暮れて、3年生までに90単位のうち18しか取れていなかった(笑)。でも、公務員試験は参加することに意義があるというオリンピック精神で受けてみたら、運良く受かってしまった。それで通産省なら、自動車、鉄鋼、繊維など、いろんな業界が見られるし、たくさん勉強させてもらえそうだと選んだわけです。そんな動機ですから、最初から一生勤めるとも決めていなかった。生意気な新人でしたよ。上司に平気でたてつくし、出勤は遅いし(笑)。ただ、猛烈に仕事はしていましたね。

 特に26歳から29歳までは、生活としては最悪の状況でした。大臣官房総務課で、省全体の法令統括や行政改革への対応を担当していたんですが、帰宅は毎日5時。朝の5時ですよ。土曜日も午前2時まで仕事をしてた。だから日曜はタ方まで寝ている。プライベートといえば、同僚のむさくるしい男たちと六本木のラーメン屋でメシを食うくらい(笑)。それだけ働いても、残業手当はほとんどつきません。時給にすると100円くらいかな(笑)。だから、将来がどうとか、何をしたいとか、考える余裕なんてなかった。まさに滅私奉公ですが、当時はまだ、官僚が優秀だから日本は発展しているんだという意識が残っていた時代。少しでも国のために働いているんだという気持ちが自分を支えていました。もっというと政治家がイヤだから官僚をやっていたともいえる。実際に官僚が法律をつくり、政策を立案して動かしていたんですから。
 その後、31歳でハーバード大学に留学させてもらったんですが、ここでは目からウロコが落ちる経験をしましたね。安全保障など、日本では学べない視点で研究ができたこともありますが、一方で「アメリカって、この程度なのか」と思うこともあった。もともと英語はほとんどしゃべれませんでしたし、地下鉄で外国人に道を尋ねられたりすると、逃げていたのが私(笑)。でも、時間がたつにつれ、アメリカのいいところも悪いところも分かり、「なんだ、(アメリカに)おじけづく必要なんかないんじゃないか」と思うようになった。こういう経験は、後の仕事に大いに生きましたね。
 そして帰国後、命じられたのが、首相官邸への出向です。海部俊樹首相と宮澤喜一首相の施政方針演説の下準備をしたり、国会対策を担当したんですが、私が官邸に行って1カ月後にイラクがクウェートに侵攻、そのまま湾岸戦争に突入しましてね。130億ドルの資金援助、PKO法など、大きな政治問題を間近に見ることになり、政府というのは、やはり外交や安全保障が大事なんだと身に染みて感じました。それまで私は、通産省はエネルギーから中小企業対策まで間口の広い役割を持つ立派な役所だと思っていたんですが、井の中の蛙(かわず)だと感じるようになった。そしてその後、通産大臣になった橋本さんの事務秘書官を命じられ、彼が総理に就任することが決まって、お前もついてこいとなったんです。


 昨総理秘書官時代は、首相側近として政治家たちを相手に官僚離れした立ち回りを演じたといわれる。さらに行政改革では官僚を敵に回して、「ミニ橋龍」「官邸の森蘭丸」などの異名をとった。だが退職後、江田氏がまず選んだのは、なんと無収入の南の島での生活だった。


何だってメシが食える。無職無収入のハワイ生活
 橋本さんに仕えた4年1カ月は、一日の休みもない、朝も早く夜も遅い、厳しい毎日でした。特に官邸で仕事をしているときには、もう通産省に戻ることはないと思っていました。おこがましいいい方ですが、総理に密着している秘書官は、常に総理大臣の視点で物事を考えていないと補佐なんてできないわけです。国を動かす中枢を見てしまったら、一介の役人には戻れない。官僚自体のモラルの低下が目に付くようになった時期でもあった。だから橋本内閣が終わり、退職することには一点の迷いもありませんでした。でも、退職後の仕事は、全く決まっていませんでした。官僚って、転身は難しいんですよ。だから、まずはプータローかな、と。公務員だから失業保険も出ない。無職無収入です。でも、段ボール箱に暮らす生活を覚悟すれば、何だってできると私は思っていました。楽天的なんですよ、すごく。何をやってもメシくらいは食っていけるさ、って。それこそ選挙に出るなんて夢にも思っていませんでした。
 でも、私は夢をひとつ持っていましてね。それは、南の島で2年でも3年でもいいから暮らすこと。実際、総理番の記者たちにはいっていたんです。誰も信じてくれなかったけど(笑)。でも私は実行した。本当にハワイに行ったんです。人生は一度しかない。当時42歳でしたが、一生のターニングポイントで、これまでと違う生活をしてみたかった。結局、1年間、安いコンドミニアムを渡り歩いて、晴耕雨読ならぬ晴泳雨読をして過ごしました。起きたいときに起きて、泳いで、読書して、ドライブをして、昼寝をして、そして官邸での経験をもとに本を書いた。最高の1年でしたね。そして、出版のために一時帰国をしたとき、自民党のある代議士に選挙への出馬を説得されたんです。別に就職が決まっているわけでもないし、ならば、やってみるかと出馬してはみたものの、やはりそんなに甘くはなかった。最初の選挙は、思い切り自民党的な選挙をして、負けました。


江田写真2懸命に頑張ってきたことは必ず次のステップで役立つ
ただ、僕は運命論者でしてね。とにかくそのときどきに全力を尽くしていれば、道は必ず開けると思っているんです。結局、今、国会議員になれましたし。実は2度目のチャレンジをするかどうかは、迷いもありました。ただ、熱心に支援をしてくださる方がいた。こんな私でも、ぜひ無所属でもう一度チャレンジをといってくださった。やはりこれが大きかったです。だから当選して何よりうれしかったのは、これまでと違う政治家になるんだと訴えた選挙で選んでもらえたこと、そしてボランティアだけの素人選挙で国会に送り込んでもらえたことなんです。
 私自身、途中退職をしていますし、終身雇用にこだわったり、一企業にずっといる必要はもうないと思っています。一生懸命頑張ってきたことは、必ず次のステップで役に立ちます。かつて役所内で組織防衛の仕事をしていたから、私は行革でも官僚の手の内が見えた。また、全然関係がないと思っている人脈が何かの拍子で貴重な人脈に変わることも多い。
 長く日本を支配した学歴社会はもう終わりました。実際、東大卒や官僚の経歴は選挙では必ずしもプラスに働きません。だからこそ私は、これからは本当に得意なこと、やりたいことをやるのがいちばん大事になると思っています。仕事の面白さは、自分のやりたいことをやりたいようにできることにあるんです。学歴ではなく、自分の気持ちこそが支えてくれる。だから、何をやりたいのか、常に自分に問い掛けてみてほしいんです。いついつやると区切りの時期を決めてもいい。そしてそこに向かって、全力を傾けて進んでいく。そうすれば、必ず道は開けると思う。危険なのは、他人任せ、他力本願な人生です。自分のやりたいことよりも会社の門構えで仕事を決めているようでは、これからは本当に厳しくなると思う。とにかく前向きに考えることです。例えば、小さな会社は将来、成長する可能性がある。そう考えてみるといい。前向きに眺めてみれば、世の中は全く違って見えてくるものなんですよ。
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