| (田原)
橋本内閣は、その行革にまともに取り組んだが、どんなところに一番苦労したか。
(江田)
それは、回りがみんな敵というか、霞ヶ関は自分が改革されるのだから、もちろんのこと、その応援団、つまり自民党の族議員、そういった人々の厚い壁をどう打ち破るか、が大変だった。私は全くの黒子、秘書官というのは、その位置づけも明確ではないので、私自身は表向き動けない。そこで、行革担当の首相補佐官には霞ヶ関対策、官邸のお膝元の総務庁長官、官房長官、副長官には、自民党や利害関係団体の説得、交渉、根回しをお願いした。
(田原)
スポンサー的なものはない?
(江田)
そう、スポンサーなき改革というか、あったとすれば、国民の声とマスコミ。そう言う意味では、我々は、不十分ながら気を使って、行革会議の議事録を意図的に即日公表した。これは会議内部の意見を公開して、国民の皆さんに判断を求めようとしたものだ。
(田原)
橋本行革には、大義名分はあった、ロマンもあった、スポンサーもマスコミや世論、一応あった。どこがうまくいかなかったのか。
(江田)
当時の金融破綻もその一つ。山一證券などの破綻があって、国中が金融、経済、恐慌ということになってしまった。例えば当時、大蔵省の財政と金融の分離という問題がシンボリックなものとしてあったが、これに直接響いた。
(田原)
象徴的人物はどうか。中曽根行革には土光さんという人がいたが。
(江田)
おっしゃるとおり、中曽根行革、土光臨調では、大義名分は「増税なき財政再建」、スポンサーは大蔵省、象徴的人物は土光敏夫さん。見事に符合していた。橋本行革には、大義はあった、スポンサーも不十分ながら、世論やマスコミということであった、そして、象徴的人物には、行革会議の会長ということで橋本首相ご自身がなった。残念ながら、土光さん的な方がいなかったからだ。
(田原)
さっきの話で、行革をやろうとして、現にやった、そこに、金融パニックがドンときた。相反することがきて、相当苦労したと思うが。
(江田)
苦労した。互いのコンセプトが矛盾した。ただ、民主主義国家というのは、色々な立場の政治家がいて、色々な国民を代表している。妥協という言葉は悪いが、当時は特に、危機管理そのもの、この国がどうなるか、という修羅場だったので、しかたないというか、これが民主主義というか、ある程度妥協せざるを得なかった。
(田原)
江田さんが総理秘書官を辞めた心境は三成に似ていると思う。ある意味で橋本さんに身を捧げたわけだが、これから江田さん自身の人生は?
(江田)
これまでは黒子。いずれにせよ、これまでは自分の名前で自分の責任で行動できなかった。今後、一つはっきりとしていることは、これからは自分の名前で自分の責任で何かをしていこうということ。その何かを今探しているところです。 |