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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載

2010年9月28日 新聞・雑誌 | 活動報告 tag:

吉田拓郎の歌が、社会人としての僕の背骨を作ってくれたような気がするんです

先の参議院選挙で大躍進を遂げた『みんなの党』。混迷する政局の中にあって、期待と注目を集める同党。渡辺喜美代表とともに辣腕をふるう江田氏の心に流れる歌とは――? 

『みんなの党』は『みんなのうた』から

 7月に行われた参院選挙で10議席を獲得するという躍進を遂げ、注目を浴びた『みんなの党』。党名は、江田さんが付けた。
 「サザンオールスターズに『みんなのうた』というのがあるんだけど、その影響を受けてますね。サザンの桑田さんとは面識はないんだけど、同年代の人間として、時代を共に歩いてきたという意識があるんです。彼の作った歌はカラオケの十八番でもあるし...」。
 '56年4月28日生まれ。岡山県内で警察官の家に生まれた。厳格な教育のもと、親の言いつけを守る、真面目なよい子だった。
 「でも、小学校の時に母親が連れて行ってくれたオルガン教室で、音感のなさを痛感しましてね。先生がオルガンで和音を弾いて、子供たちはそれと同じ和音の書かれたカードを見せるんだけど、全部はずれたんです。ホントに音楽は苦手だった。だから、演奏会の時なんかも友だちは笛やハーモニカを吹いてるのに、僕はいつもトライアングルみたいな簡単な楽器で、ある時なんか木魚を叩いてましたからね(笑)」。

吉田拓郎との出会い

 しかし、そんな音楽嫌いだった少年の心を動かすアーティストが次々に登場したのが'60年代の後半に始まるフォーク・ニューミュージック・ブーム。井上陽水やかぐや姫、荒井由実らが台頭して、若者たちの支持を集めた。そんな中、江田憲司少年に大きな刺激を与えたのが、吉田拓郎。
 「ものにはならなかったけど、影響受けてギターも買ったし、とにかく拓郎の硬派なイメージが大好きだった。LPは全部持ってたし、パーソナリティーを務めた『オールナイトニッポン』も欠かさず聴いてましたね。高校までは真面目に勉強もしてたけど、大学(東京大学法学部)では合コンや合ハイ(合同ハイキング)なんかに出てばかりで、授業はあんまり受けてないから成績はギリギリ。ひどいもんでしたよ。親元を離れた解放感もあったけど、それまで真面目な子供として生活してきてた反動が一気に出たんでしょうね、いま思うと。そう言えば、大学に入って間もなくテレビで『あこがれ共同隊』っていうドラマが始まって、これは郷ひろみ、西城秀樹、桜田淳子っていう男女トップ・アイドル3人トリオが共演して人気を集めた番組だったんだけど、これの主題歌が吉田拓郎作曲で、喜多條忠作詞、山田パンダ歌の『風の街』だったんですよ。歌のイメージと、東京で新しい暮らしを始めた気持ちとが重なって、今でも新鮮な感覚で思い出しますね」。

無頼の生き方に憧れて

 音楽は苦手で楽器の演奏も得意ではなかったが、歌は大好きだった。
 「大学の頃は、原田真二が流行ってたし、社会人になって初めの頃は、ジューシィ・フルーツの『ジェニーはご機嫌ななめ』なんかがヒットしてたのを憶えてますね。吉田拓郎以外にも沢田研二とか布施明、チャゲ&飛鳥、安全地帯、大江千里、いろいろ聴きましたよ。そして、サザンね。考えてみると、学生の頃、社会人になってから、大人として少し落ち着いてからと、自分が変わっていく中で、様々な歌にふれて、それが今でも当時の記憶と一つになって残ってるんですね」。
 大学では優等生ではなかったが、無事に卒業。そして、卒業後にはみごと通産省(現・経産省)に入省した。
 「東大の法学部を出る学生なんて、ほとんど公務員試験を受けるから、成績はよくなかったけど僕もオリンピック精神みたいなもので、受けるだけ受けたんです。ついでに司法試験も受けてみたんだけど、ギリギリで受かって、これは父親が警察に勤めていたことの影響もあるんだろうけど、やっぱり民間よりも公益のためになる所で働きたいって気持ちがあったんですね。それで官僚を選んで、当時は官僚になるなら、大蔵か通産って言われてたから、通産省に決めたんです。でも、のんびりしてましたねぇ。仲間は7月頃から就職に向けて動いてたらしいけど、僕は規則に従って9月になってから活動を始めて。担当の人から、今まで何やってたんだ!?なんて呆れ顔で言われましたからね(笑)」。
 在学中、授業に出ないで遊んでばかりいたのも、仲間と同じように早い時期から就職活動を始めなかったのも、恐らくは吉田拓郎の影響。群れることなく、大勢に迎合しない無頼の生き方に憧れるところが大きかった。
 それは通産省に入ってからも同じ。
 「よくディスコで遊んでましたね。赤坂のビブロスとか、吉祥寺のインディペンデントハウス、六本木のネペンタとか。堅苦しい役人の世界に勤めてると、どこかで息抜きしないではいられなかったんですね。31歳の時にアメリカに留学するんですけど、ルームメイト(現・オバマ大統領補佐官)がポットラック(各自が料理を持ち寄って楽しむパーティー)が好きで。僕も日本に帰ってから職業も国籍も関係ないパーティーを主催して、大勢でワイワイやってました。取り立てて社交的ってわけでもないんだけど、そうやって新しい空気を吸ったり、新鮮な刺激を受けたりするのが楽しかったんだろうな。それにそんな風にして出来上がったネットワークが、こうなることを考えていたわけではないのに、今とても役立ってるんですから面白いものだと思いますよ」。

オリジナルCDを作ってみたい

 先の選挙戦での勝利により、国民の注目と期待が集まる中、激務が続く。
 「最近はなかなか時間が取れないんだけど、例えば家族で旅行に行った時なんかは、必ずみんなでカラオケに行きます。子供たち(8歳と5歳の男の子)はポケモンの歌なんかうたって、女房は...何うたってたかなぁ(笑)? 僕は、やっぱり拓郎やサザンが多いですね。拓郎の歌は社会人としての僕の背骨を作ってくれたような気がするし。カラオケが流行り出した頃は、演歌しかなかったから、なかなか馴染めなかったんだけど、その後はジャンルも曲数も増えたじゃないですか? だからお蔭様でよく歌うようになりました。意外に、上手いって褒められることも多いんですよ。だから、死ぬまでに一度、自分で拓郎の好きな曲を選んで、それを歌ったCDを作ってみたい、なんて思ってますね。ちょっと調子に乗ってますか(笑)?」
 爽やかな笑顔に、新たな時代の風が吹きすぎる。
 新たな日本をいま動かせるのは、きっとこの人のような新しい政治家なのだ。


えだ・けんじ 1956年4月28日、岡山県生まれ。東京大学法学部を卒業し、通産省に入省。87年、米ハーバード大研究所に留学、翌年、通産省に復帰。産業政策局総務課長補佐、総理大臣秘書官などを歴任。2002年、衆院議員に初当選。昨年『みんなの党』を結成し、現・幹事長。

                                        月刊ミュージックスター2010年11月号(vol.239)掲載

SIGHT44号みんなの党特集 発売中。
SIGHT45号にインタビュー掲載