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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区)

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【月刊文藝春秋/新年特大号】江田けんじのインタビュー記事が掲載されております。

2016年2月13日 メディア情報 | 事務所からのお知らせ | 新聞・雑誌 tag:

【平成13年】中央省庁再編 橋本首相は大蔵省に屈服しかけた 

「火だるまになってでも断行する」

 橋本龍太郎首相(当時)が並々ならぬ決意で臨んだのが、中央省庁再編だ。第二次橋本内閣を発足させた平成八年十一月、首相直属の「行政改革会議」を設置。その最終報告に基づき、平成十三年、一府二十一省庁は一府十二省庁に再編された。

 橋本首相の政務秘書官を務めた江田憲司氏(現・維新の党代議士)が、当時の秘話を明かす。

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「もう秘書官を辞めよう!」

 そう私が思ったのは後にも先にもこの時だけでした。平成九年八月。行政改革会議の中間報告が、大蔵省の根回しどおりで決着した時です。


 橋本さんとは、平成六年六月、橋本さんが通産大臣となられ、その事務秘書官に就任した頃からのご縁です。引き続き、首相の政務秘書官に抜擢していただいた時、私はまだ三十九歳。私にとって橋本さんは、政治の世界の父でした。


 その父に対し、なぜ私は激昂したのか。それは、われわれの悲願だった中央省庁再編の最中、橋本さんが大蔵省の激しい抵抗に遭い、改革が骨抜きになる寸前だったからです。


 中央省庁再編で目指したのは、一府二十一省庁に細分化された役所を、業務の類似性や効率性で大きく括り、半分程度に減らすこと。そして、国家運営の基本である予算編成や主要政策は官邸が決めるという、政治主導の体制を作ることでした。


 この改革にこだわった背景には、平成七年、阪神淡路大震災での苦い経験がありました。橋本さんが通産大臣時代のことです。


 あの日、震災が発生したのは午前五時四十六分。その後の午前八時ごろ、橋本さんと秘書官の私は、村山首相との会合のために官邸に出向きました。しかし、そこで交わされた会話は「関西のほうで大震災が起こったらしい。死者やけが人も多少出ているようだ」。情報が乏しいため、危機感も希薄でした。


 当時の官邸はスタッフも少なく、がらんどうも同然。とても危機管理ができる体制ではなく、その姿は、この国が官僚主導であることを象徴しているようでした。政治家には仕事をさせないという官僚機構の強い意思表示のようにも見えました。


 こうした経験から、橋本さんは、官邸機能の強化を一丁目一番地として掲げました。しかし当然、官僚は既得権益を奪われたくない。とりわけ、国の財政を握っていた大蔵省との間には、壮絶な戦いがありました。


 大蔵省では平成七年、将来の次官候補と呼ばれた幹部二人が金融機関からの過剰な接待で辞職しました。また、存続が危ぶまれた住専(住宅金融専門会社)への巨額な税金投入で、大蔵省の金融行政に批判が集中した。そんな中で橋本さんは、「財政と金融の分離」を掲げたのです。


 大蔵改革は、政権の最重要課題の一つで、メディアからも「大蔵改革なくして行革なし」と言われるほどでした。秘書官である私自身も、会社で言えば「経理部」にすぎない大蔵省が全省庁を睥睨しているような政府のあり方に疑問を持ち、その強大な権力を解体しなければ日本は変わらないという強い信念を持っていました。しかし、大蔵官僚たちはなりふり構わぬ抵抗を見せるのです。


「大蔵族のドン」の別荘で

 省庁再編を扱う行革会議の集中審議が始まる直前の、平成九年八月八日のことです。この夏、橋本さんは山梨県鳴沢村の山荘で静養していました。山荘から車で十分程度のところに、「大蔵族のドン」と呼ばれた竹下登元首相の別荘があった。そこへ、大蔵省出身の秘書官が手引きして、橋本さんを連れて行ったのです。


 この時期、大蔵省は「信用秩序の維持」という名目で、金融の企画・立案の機能は大蔵省に残すという案を触れ回っていました。橋本さんの掲げる「財政と金融の分離」を、事実上骨抜きにする案です。


 竹下さんの別荘には、大蔵省の幹部も待ち構えていた。そこで橋本さんに対し「信用秩序の維持」というお題目が持ち出されたのです。


 大蔵省の動きを全く知らないまま、私は八月十八日からの集中審議に臨みました。そこで橋本さんが突然、「信用秩序の維持のための業務は大蔵省に残す」と言い出した。びっくりすると同時に、ひどい敗北感を味わいました。橋本さんに辞表を出そうと思ったのは、この時です。「信用秩序の維持なんて何とでも読める曖昧な決着をして、何のための大蔵改革、橋本行革なのか。ここまで金融行政で問題を引き起こした大蔵省が、これじゃ無傷じゃないか!」


 当時の私は、朝は五時起き、夜は十二時過ぎまで帰れないし、休日もない。プライベートを犠牲にしてまで頑張ってきたのは、この「経理屋」が支配する政府の構造を変えないと、日本の未来を切り拓く改革は絶対にできないと信じていたからです。橋本さんに裏切られたという気持ちもあって、官邸のトイレで、不覚にも一人涙を流しました。そこへ、梶山静六官房長官から携帯に電話がかかってきて、「江田さん、今日の夜、空いてるか」と言う。その晩は二人で飯を食いました。馬鹿話ばかりで終わったけれど、あれは梶山さんなりの気の遣い方だったのでしょう。


 そうした私の動きに気づいた橋本さんは、翌朝、私を執務室に呼んで、「江田くん、きみが良いと思う案を出してくれ」と言いました。そこで僕は「金融破たんなどの危機管理の業務に限り大蔵省に残し、あとは新設の金融庁に移す」という案を出した。大蔵省に首の皮一枚を残した格好です。こうしていったん出された中間報告は見直され、十二月には行革会議の最終報告が公表されました。


 平成十三年、中央省庁は再編・統合され、大蔵省も「財務省」と名称を変えました。首相が直轄する経済財政諮問会議もこの時、設置された。現在の官邸主導、政治主導の原点は、すべてここにあるのです。


※この記事は月刊文藝春秋/新年特大号に掲載されています。

【週刊金曜日】佐高信氏と江田けんじの対談記事が掲載されました。
「プライムニュース」(BSフジ)に出演いたします(3/21)