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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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宮澤元総理を悼む・・・官邸で直接お仕え

2007年7月 2日  tag:

 宮澤喜一元総理が亡くなった。総理ご就任の時、私は通産省から出向して官邸に勤務していた。前内閣の海部内閣後半(90年6月)から宮沢内閣の前半まで(92年6月)、PKO法案が三日三晩の徹夜国会で成立するのを見届けて通産省に戻ったのだった。

 当時、私の職務は、首相が国会冒頭で行う施政方針・所信表明演説の草稿づくりと国会対策だった。だから、私が初めて宮澤氏とお会いしたのは、その首班指名の国会の数日前、新総理の所信表明演説の相談に、個人事務所に伺った時だ。どこか村長然とされていて「取っつきやすかった」海部総理から、知識経験とも申し分のない大物総理ということで緊張したことを覚えている。

 しかし、実際お会いしてみると、極めて紳士然とした、好々爺といった風情で、特段プレッシャーを感じることもなかった。該博な知識で、演説草案もかなり筆を入れられるのではと思ったが、ただ一点だけ、丁度パパブッシュが冷戦後の「NewWorld Order」を提唱していた頃で、演説にも「新しい世界秩序を構築する時代のはじまり」という文言を入れるよう指示があっただけだった。

 何と言っても、私の宮澤内閣での一番の思い出は、PKO(国連平和維持活動協力)法の策定だ。その前年、「国際平和協力法案」が、外務省の政治音痴ぶりと宮沢派国対の弱体ぶりをさらけ出し廃案になったことを受けて、当時の石原信雄官房副長官をはじめ官邸がこの法案を引き取り、やっとの思いで成立させた。

 私自身としては、官邸の国会対策の担当者として、当時の加藤紘一官房長官と三日三晩、国会で寝泊まりしたことを懐かしく思い出す。野党の「牛歩戦術」華やかなりし頃で、ひたすら静止画のように映し出される(牛歩なので)テレビ画面(本会議場での投票場面)を見て、何度もため息をついたものだ。

 在任中、何度か食事にも誘っていただいたが、お酒には気をつけておられるご様子で、「ビール一杯」ですませるなど自重されていた。そのお酒、宴席では冒頭、必ず床の間の掛け軸のところへ歩み寄り、「蘊蓄(うんちく)」や講釈を話された。そのお話に如何にレスポンス、反応するかで、宮澤氏一流の人物鑑定が即座になされた。緊張感が走る一瞬だった。こうしたスノビッシュな、英字紙を好んで読まれるような知的スタイルが、永田町からは敬遠され、今ひとつ人気がなかった大きな要因だった。

 「護憲派の保守」といわれる。戦後政治の生き字引のような方が、自衛隊の「海外での武力行使」に一貫して反対してこられたのは我々にとっては心強い限りだった。歴史に謙虚に向き合おうとせず、「自己チュウ歴史観」を振りかざす政治家が増えてきた今日、後藤田氏に続き、こうした方を失った日本の損失は計り知れないほど大きい。残された者としては、比肩すべきもないが、この路線を継承していきたい。

 江田けんじと言えば、橋本政権当時のイメージが強いが、その数年前、湾岸戦争勃発からPKO法成立まで、日本の国際貢献が世界から厳しく問われた激動の二年間、海部、宮澤という二代の首相に直接お仕えしたこともあったのである。

 宮澤元総理のご冥福を心からお祈り申し上げます。

(注)牛歩戦術
 野党の法案成立を阻止する戦術の一つ。PKO法のような重要法案の場合、「記名投票」(本会議場の壇上にあがって名前入りの木札で投票)となるが、名前を点呼されても席から壇上まで、まるで牛の歩みのように、のろのろと(時には長時間止まって)投票まで時間をかけ、法案成立を遅らせるもの。それをテレビで見ると、静止画のように画面が止まってみえる。旧社会党他野党が当時は好んで使った。最近はさすがに馬鹿馬鹿しく(恥ずかしく)てやらない。PKO法の場合、それが三日三晩続いた。

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