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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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シリーズ:「集団的自衛権」を考える・・・④解釈改憲する方に重い挙証責任

2014年5月12日  tag:

 自民党政権を含む歴代政権が、何十年にも亘って営々と築き上げてきた憲法解釈、すなわち「集団的自衛権は保有するが行使できない」という「公権解釈」を変えるというなら、それは変えたいという側に、その現実かつ具体的な必要性を強く立証する責任がある。また、このような国家の存立、国政の根幹に係ることには、当然のことながら、国民的理解を得ることも必要不可欠だ。


 法律の制定や改正ですら、そのためには「立法事実」というものが強く求められる。「立法事実」とは、「法律の制定を根拠付け、法律の合理性を支える社会的・経済的・文化的な一般事実」「立法の必要性や立法目的の合理性を支える事実」のことである。ましてや、それが憲法改正、それと同等の重要性を有する解釈改憲であれば尚更のことだ。


 その意味で、私はずっと、「国民の生命・財産を守る」「領土領空領海を守る」という観点から、あるいは、そのための「日米同盟の効果的運用を図る」という観点から、一体どこに今、安全保障上「穴」があいているのか、どこに支障が生じているのか、と安倍政権に問い続けてきた。


 そして、実際に「穴」や「支障」があるのなら、その具体的事例、ケース毎に、それが従来の「個別的自衛権」や「警察権」の範疇で読み込めないのか、それとも、一歩踏み出して「集団的自衛権」の範疇でしか説明しきれないものなのか、が検討されなければならない。観念論や机上の空論ではなく、ましてや対米追従論でもなく、「現実具体的なケース」に即して、その「必要性」を精査すべきだと言ってきたのだ。


 その検討状況が、今週、やっと政府の「安保法制懇」報告という形で示されるらしい。それを受けて「政府方針」というものも発表されるようだ。そうなれば、我々結いの党としても真摯に党内議論を進めていきたいし、是非とも、国会審議の場で徹底的に議論し、問題状況を整理し、また論点を明らかしに、この問題について国民の理解も深めていきたいと思う。


 ただ、仮に、その結果、一つや二つのケースが「集団的自衛権」の範疇でしか捉えられないということになったとしても、次に、これだけの、憲法改正にも匹敵するような重大な政府方針の変更をする以上、それが、それだけの変更に足る「立法事実」であるか否かが検討されなければならない。単なる架空の、軍事的には現実可能性のない、あるいは低いケースをあげつらっても説得的ではないし、その必要性につき国民の納得が得られるとは到底思えない。本当にこの国の防衛のために深刻な事態に対処するために、どうしても従来の解釈では読み込めないケースが有意に出てきたという場合にはじめて「必要最小限の集団的自衛権の行使」「集団的自衛権の限定容認」の是非という議論がはじめて可能となるのだ。


 私は以上の手順で、今後、この国民的議論のある問題について検討を進めていくべきだと考えているが、その際、従来の「個別的自衛権の解釈の適正化」あるいは「個別的自衛権解釈の延長線上」で、そのような「穴」「支障」をカバーすることは認められてしかるべきだと考えている。


 私も若い頃、内閣法制局には何百回も通ったものだが、「法律」を知っている人間は「軍事の現場」を知らず、「軍事の現場」を知っている人間は「法律」を知らず、ということがままあった。その結果、これまでの憲法第9条に係る憲法解釈にも、極めて「杓子定規」な、軍事の現場からはかけはなれた解釈があったことも事実だろう。ましてや、ミサイル技術をはじめ軍事技術が飛躍的に発展した今日、個別的自衛権の行使要件たる「急迫不正の侵害」「武力行使の発生」という概念自体も、現実に合わせ、それに応じた解釈に変更せざる得ない場合も出てきているのではないだろうか。


 例えば、某国が「東京を火の海にする」と宣言して、ミサイルに燃料を注入した場合、「坐して死を待つしかないのか」、いや、その場合は、そのミサイル基地を先制攻撃することも憲法解釈上認められないわけではないという内閣法制局の解釈も、過去にはあった。その脈絡で、国際法上にもある「先制的自衛」あるいは「武力行使の着手」とおう概念を現代的に再定義し、従来の「個別的自衛権の解釈」の「適正化」で、今「内閣法制懇」等で議論されている多くのケースが読み込めるのではないか、と私は考えている。また、「集団的自衛権」ではなく「集団安全保障」の領域では、憲法第9条とは別の法論理の体系で説明できるのはないか、とも考えている。


 いずれにせよ、これまで営々と築き上げられてきた政府の憲法解釈の「適正化」や「延長線上」で、今、我が国が直面している安全保障環境の変化に対応できるのであるならば、それに越したことはない。「ルビコン川」はなるべく渡らないに越したことはないのだから。「集団的自衛権の限定容認」を「蟻の一穴」にし、将来はフルレンジの「集団的自衛権」に行使を実現したいと言う輩はともかく、大多数の国民はそれならばと納得していただけるのではないかと思う。終盤国会、真剣に取り組むべき最重要課題であろう。十全の国会審議や党首会談等を強く求めていきたい。(続く)


<<バックナンバー>>
「集団的自衛権」を考える・・・①「限定容認」か?「個別的自衛権の解釈適正化」か?(2014年04月14日号)
「集団的自衛権」を考える・・・②自衛隊の海外派遣(派兵)にはしっかりとした歯止めが必要(2014年04月21日号)
「集団的自衛権」を考える・・・③日本にはイラク戦争の総括がない!(2014年04月28日号)

シリーズ:「集団的自衛権」を考える・・・③日本にはイラク戦争の総括がない!
シリーズ:「集団的自衛権」を考える・・・⑤なぜ「集団的自衛権」でない事例を掲げたのか?(「安保法制懇」報告を受けた安倍首相会見)